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鉄道乗りつぶしや聖地巡礼(アニメ舞台探訪)をライトに楽しむ、うるっちのブログです。

去年からJASRACが、契約した運営会社のブログについては、歌詞の掲載を許諾することになったみたいですが、FC2とは契約したという話を一向に聞かないので、その辺に触れないように気をつけながら書いています。
そのため、ちょっと読みにくくなるかもしれませんがご容赦ください。


なんとなくテレビを観ていると、earth music&ecologyのCMで、森山直太朗さんの『生きてることが辛いなら』の一節が流れてきました。
そういえば、この曲は何かと話題になったなぁなんてことを思い出し、もやもやと考えていたことに関して記事を書こうと思い立ちました。


生きてることが辛いなら/森山直太朗 -歌ネット

公式でフルPVを視聴できます。



2008年にこの曲が発表されたとき、ありきたりな感想ではありますが、私はすごく意表を突かれたことを覚えています。

2008年当時の私と言えば、ちょうど片頭痛+鬱病の症状が一番ひどかった頃ですが、この曲はかゆい所に手が届く…なんか違うかw ともかく、漠然とした共感を抱きました。
そして、この曲の歌詞について「自殺を助長するのではないか」という話題がテレビで取りざたされるのを見たのも、ほぼ同時のことでした。


おそらく、作詞の御徒町凧さんにしてみれば、それなりにあの手の形で話題に上ることは承知の上で、この詞を世の中に出したのではないかという気がしています。
ちなみに、この詞自体は発表よりもずっと前に書かれたものだったそうです。


「めげるな!生きてりゃいいことある!幸せはその先にあるよ!」的な、ストレートな応援歌でも、一定の共感は得られるし、励まされる人だって相当数いるでしょう。

ちょっと語弊がありますが、そんなことは音楽、それも飯を食うための音楽を書いている人なら、なおさら百も承知ではないでしょうか。
現に、歌詞カードを見たら「うっわ、なんてストレートなんだ…!」という曲に、私自身救われた気持ちになった経験は多々あるわけで。


でありながら、『生きてることが辛いなら』は、100%前向きソングではなく、あえて一見「死」の道を許容しているようなフレーズから始まります。

「【生きてることが辛いなら】…さぁどうくるかな?
『僕の話を聞いてほしい』とか?『そばにいてくれるだけでいい』とか?……えっ【死ねばいい】!?」

そんな感じでギョッとするのが世間一般の反応だろう、という前提で書かれているように思います。

賛否両論になるのは、「ギョッとした」その次に、どんな方向に感性が傾いたか、単純にその個人差だと私は思っています。
後に続く詞を助けとして、自分なりに解釈して納得すれば「賛」になるし、「いや、それでもちょっと私は…」と思えば「否」になる、ただそれだけのこと。


では、どうして御徒町さんはあの詞を書き、森山さんは曲をつけたのか。
まさか、『さくら』であれだけヒットした御徒町・森山コンビが、炎上マーケティングのような安い話題性狙いで書いたとは到底思えません。


ストレートな励ましや応援の言葉は、場合によって驚くほど無力なものになってしまいます。

「頑張れ」とか「ファイト」という言葉を力にできる人は、それでいい。
でも、人によっては、「もう自分なりに十分頑張ったのに、まだムチを打てと言うの?」と、かえって追い詰められてしまうことがしばしばあります。

先の震災があった後、私はブログのプロフィール画像に「がんばれ東北」と入れました。
私自身、「がんばれ」と声をかけられても…という時期があっただけに、安易で無責任ではないか、とも思ったのですが、一方で「がんばれ」を力に変える方もいるならと思って、結果的に「がんばれ」を入れたのでした。

現実問題として、両者に共通してかけられる言葉というのは、なかなか見当たりません。


キャッチーで分かりやすい言葉を紡ぐ曲たちを直球だとしましょう。それはそれで、必要とされる「作品」です。
ならば、一見逆説的に、少し突き放してみたようなこの曲は、御徒町さんなりのブロックサインであり、森山さんなりの変化球ではないかと。

「生きるのが辛いと思ってしまうことがあるのは分かる。でも、あんまり自意識過剰になるなよ?ひとしきり泣いて、どうしようもなくもがいたなら、ほら、君は悲しみの分だけ強くなった。どう?またせいぜい生きる気になってきたんじゃない?」

そういったメッセージを、少し皮肉っぽく投げかけた。

…なんていう風に自分勝手に咀嚼して、ハッとして、励まされた私みたいな人もいた。

それだけで、「作品」の意義としては十分ではないでしょうか。


断っておくと、私は『生きてることが辛いなら』という「作品」自体に関しては肯定派です。
ただし、それはあくまで、私の中での咀嚼がある程度進捗した上での肯定でしかありません。

コンビニ放送自粛の件については、疑問に思うどころか、むしろ妥当とさえ思っています。


先が見えない、明日が来るのも怖い、そうやって顔真っ青にして、足取りもおぼつかないままコンビニに入ったら、いきなり【いっそ小さく死ねばいい】とか流れてきて、そんな状態でまさか「あ~やっぱまだまだ生きちゃおっかなぁ!」とか抜かす余裕なんかあるわけねぇだろ!というのも、一方で分かるからです。自分にそういう時期があったから。

そういう人たちに、「ま、とりあえず噛み砕いてみなよ」と言うのは酷というものです。

かと言って、直球と変化球を兼ね備えたような歌には、残念ながら出会ったためしがないし、この先出会える気もしません。
ただ、「ふと耳に流れてくる」という環境下で、変化球の【いっそ小さく死ねばいい】が悪いほうに作用してしまうことが無いとは言い切れないので、ひとまず自粛をしてみたというのは、とりあえず順当かなとは思います。


だから裏を返せば、【死ねばいい】の一言だけを能動的に切り取って、やいのやいのと「言葉狩り」をすることに意味はないし、それはもう、「ああ、この人たちは鑑賞を放棄して遊び出したんだな」と軽蔑するしかありません。

そりゃあ、そんなとこだけ恣意的に切り取られたら、「あー死ねばいいのかぁ…」以外の受け取り方ができなくなるのは当たり前じゃないですか。


それから、結構見られた「自殺者の遺族に聴かせられるのか」という声について。

繰り返しますが、私は「作品」自体に対しては肯定派です。
その上であえて言いましょう。「まぁ、大半の場合無理でしょうね」と。


アーティストは別に宗教家ではないので、「作品」が持ち得る意味(のようなもの)は、せいぜい「私はこう思います」止まりであって、「あなたもこう思ってください」ではないのです。

『生きてることが辛いなら』のような変化球が届かない人はいて当たり前。
それ自体は正しいことだし、だからこそ、「他をあたってくれ」としか言いようがありません。


というか、そんなものを論拠にできるのであれば、音楽に限らず、世の中のあらゆる「作品」を抹消しなければならなくなります。

今しがた津波を逃れてきたような人に、瞬く間に街が飲まれていく「崖の上のポニョ」を見せられますか?
殺人事件の被害者遺族に、血だらけの現場でヘラヘラ喋る古畑任三郎を見せられますか?


…そうです。実は一概に「ノー」とも言えないのです。
そのような状況下にあっても、あくまで娯楽として消化できてしまう人の存在を否定することはできません。

なぜなら、事情がどうあれ、生来的に受け入れられる球種・受け入れられない球種が、人によって全く違うのだから。
ただ、キャッチする球種くらいは、自分で選択しなきゃダメでしょ?という話。

エンタメですから、あくまで。特定の人物を侮辱しているわけでもなし。

周りなんて関係なく、自分が消化できるものだけ受け入れればいい。
同時に、ある「作品」をたまたま自分が消化できないからと言って、その存在を攻撃していい理由にはならない。


要は、何かしらの事情で共鳴しづらそうな対象を故意に指定して、「誰それの前で歌えるのか」という文句を以て「作品」を否定しようとする姿勢自体が、的外れも甚だしいことなのです。それはもう、馬鹿馬鹿しいほどに。

「私遺族なんですけど」。
そんなのは、拠り所にする「作品」を探すことを放棄したり、口に合わない「作品」に当たり散らしたりする免罪符にはなりません。現にその「作品」を必要とする人がいる以上は。
「お望みのものではありませんでしたか。じゃあ、他をあたってください」。その返答が唯一解だと思います。


全く同じようなことが起きたのが2011年。槇原敬之さんの『Appreciation』です。「Heart to Heart」というアルバムに入っています。

Appreciation/槇原敬之 -歌ネット

槍玉に挙げられたのは、この曲の2番Bメロの一節でした。

確かに悪く言えば、タイムリーな問題を「ネタ」にしてしまった詞ではあります。
ただこれも、あくまで変化球のスタイルとして、痛烈な風刺が込められているに過ぎないのではないでしょうか。


話題になった当時、案の定「被災者の前で歌ってみろ」という意見が多々見られました。

別に誰も「聴け」と押し付けているわけではありませんよ。
被災者の中にそういう変化球を求め、この曲にたどり着いた人がいるなら好きなだけ聴き込んでもらえばいいし、そうでなかった人はまた別の球を見つけてくれればいいし。ただそれだけのことです。

あえてその辺りに乗っかって反論を返すなら、「壊れた原子炉よりも手に負えないのは僕らの心だ。」という一文は、「壊れた原子炉は手玉に取れる。」という意味を、少なくとも無条件に含むことは絶対にできません。これは解釈の余地なく日本語の問題。


はっきり言って、こんなに単純な風刺にまんまと煽られて、「東電擁護ソング」などと妙なレッテルを貼って満足している品性のない人間にこそ、私は強い不快感を覚えます。


ちなみに、『Appreciation』とほぼ同じようなテーマをちょっと違う球種(どちらかと言えば直球)で書いている、『White Lie』という歌も同じアルバムに入っています。

White Lie/槇原敬之 -歌ネット

それは何も安易なダブルスタンダードではなくて、人によって拠り所にできる「作品」は違うものだと、槇原さんは知っていたはずです(でなければ、『世界に一つだけの花』なんて書けなかったでしょう)。


すいません。いい加減、そろそろまとめます。

「作品」の鑑賞という行為は、「様々な受け入れ方が存在する事実を(受け手が)認識している」、という前提を必要とするものだと思っています。
もちろん、「作品」の側に、明らかに特定の人物への攻撃性を伴う悪意が含まれる場合など、これができない例外はあるわけですが。


「作品」について一通りの鑑賞をした上で、「これは私には受け入れられなかった。思うにそれはこれこれこうだからだ」という「批判」をすることは、大いに正当です。

その一方で、「作品」を「咀嚼」でなく「分解」し、もはや「作品」の体をなさない対象の言葉尻をひっつかんで騒ぎ立てるような、愚かな攻撃的行為を平気でする人間があまりに目立つのが嘆かわしい、というのが一応の結論です。


「批判」と「攻撃」は、ともすれば本当に紙一重にあたるものでしょう。

しかし、賛否にかかわらず、まずはある程度の理性をもって、「作品」に触れる姿勢を整える一定レベルの覚悟を持っていれば、稚拙な「攻撃」をしてしまうことは無くなるし、その姿勢は鑑賞する受け手に課せられた最低限の義務だと、今の私は思うのです。
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